どこに行くにも、私「のんびり」は公共交通機関を使って出掛けます。

今日(こんにち)では、「モータリゼーション」の時代ということで、多くの人が自家用車を持ち、どこに行くにもクルマを使って出かけるようになっています。

ところで、「公共」というのは、「誰でも使える」ということです。

当たり前に聞こえるかもしれませんが、実はそれが重要です。

残念ながら、「公共の乗り物」というのは、現代では採算性や人手不足、その他諸々の事情から、どんどん削減されてしまっています。

「クルマ」を所有している人はいいですが、そこから「弾かれてしまった人」が、サービスを享受できず、移動の自由を制限されてしまうというのは問題だと思います。

役所に行ったり、病院に行ったり、買い物に出かけたり。
そういった日常の移動を、きわめて「パーソナルな乗り物」に依存することは、果たして社会のあるべき姿なのでしょうか。

「最短距離」という呪縛

「クルマ」は自由度が高く、どこにでも行ける、というイメージを多くの人が持っているかもしれません。

それに対して、鉄道は「レールの引いてあるところにしか行けない」というイメージが世の中の人たちに刷り込まれてしまっている部分があります。

でも、全国を公共交通機関だけを使って旅をしている私は思います。
鉄道を起点にすることで、実は意外といろいろなところにたどり着けるし、「駅」という拠点が軸になることで、その街の特徴を感じることができるのです。

さくらんぼ東根駅前の像

現代は”問題”に対して「すぐに正解を求める」傾向が強くなっているように感じます。
それは移動に関しても同じで、「目的地にまっすぐ着くこと」に何か呪縛のように捉われている人が多いように思います。

例えば、RPGで、シナリオをよく吟味もせず、ただ「ラスボス」を倒すことばかりに執心し、「ゲームそのもの」を楽しむ余裕がないとしたら、果たしてそのゲームを制作した人はどう思うでしょうか。

RPGでは、往々にして「サブクエスト」というものが用意されています。
本筋には関係ないため、それをプレイしなくても「クリア」は可能です。

でも、その「サブクエスト」を知っているのと、知らずにいるのとでは、そのゲームの全体像の理解度というのは違ってきます。

現代の社会というのは、「ただひたすらゲームを最短でクリアすること」に終始し、それが目的化してはいないでしょうか。

スピード・効率・生産性というものがあまりにも重要視されるあまり、「過程」というものを顧みなくなった結果、ロードサイドにあるような、どこでも見かける「味気ない」店舗ばかりの社会が広がっているような気がしてなりません。

鉄道は「全体を俯瞰することができる」

私はクルマの運転免許を持っていないので、運転席から景色を眺めることはないのですが、鉄道で移動することの決定的な違いとして、クルマを運転する際の視野と、鉄道に乗っているときの視野では、明らかに違いがあります。

特にローカル線のような鉄道の車内では、その気になれば車両の位置を移動したりして、いろいろな場所から風景を眺めるということが可能です。

それに対して、クルマの場合は、特に運転者の視点ではどうしても前方を注視する必要があります。
周囲の風景を見る余裕はそれほどないでしょうし、道路沿いの風景というのは、線路沿いに比べると殺風景なことも多いです。

現代の社会、そしてインターネットやSNSの言論というものは、近年特に「自分の周りしか見えていない」という傾向を感じます。

社会全体に余裕がなくなってしまったというか、「視野の狭さ」を見出すシーンが増えているように思うのです。

核家族化が進み、社会が細分化される中で、何か「皆が同じ方向を向いて進む」という傾向を感じるなか、私は「よそ見をする余裕」というものの重要性を鉄道に感じています。

鉄道の車両の中で、本を読んだり、ぼーっとしてみたり。時には車窓から遠くを眺めていたら、面白いものを発見したり。

じっと前を注視するだけでは見えなかった「気づき」というものが、私は鉄道という手段を使うからこそ、たくさん見えてくるのではないか、と思っています。

鶴見線大川支線の車窓から

いつかの鶴見線探訪で偶然見つけた沈みかけの海賊船。
2026年6月に川崎市によって行政代執行(強制撤去)されたらしく、現在は見ることはできない模様。