私は現代アートが好きで、瀬戸内国際芸術祭のようなローカルな場所で開かれる野外アートのイベントに出かけることがたびたびあります。

そんな現代アート作品の魅力は「自分が作りたいものをつくる」という自由さにあるのではないかと思います。

かつての西洋美術は、「パトロン」がいて、その人の依頼に合わせて作家が創作するという形態が主流でした。そのため、作家の画風は現れるにせよ、どちらかといえば商業作品のような位置づけとして制作されていたような気がします。

近年、「ZINE」という個人が制作した商業ベースではない小冊子を発行することが人気を呼んでいます。

いわゆる商業で流通する書籍は、どうしても「受け手(消費者)が読みたいものを作る」ということを求められがちです。

しかし、ZINEは「個人的な体験」「ニッチなジャンルに特化した作品集」といった、パーソナルなものにフォーカスした出版が可能です。

つまるところ、「誰かが読みたいもの」ではなく、「自分が書きたいもの」をつくることができる、そこにZINEの本質的な魅力があるような気がします。

私としても、何か「誰かが欲しているものを作る」という、ある種の「作為的な表現」に出会うと、何か引っかかるといいますか、大衆に媚びるような作風というのがどうにも苦手なタイプでして。

「表現の本質」というと大げさかもしれませんが、市場に出回る多くの売れ筋の書物について「本当にそれはあなたが書きたいものですか?」と問いたくなるようなものが溢れていることに、多くの若者たちが辟易しているような気がするのです。

ZINEのような極めてパーソナルな表現物というものが支持されていることの裏には、やはり巷に氾濫する創作物に対するカウンターカルチャー的な、シンプルに「自分が作りたいものを作る」という動機があるのではないかと分析しています。

それは現代アートにおいても同じで、たくさんの人に支持されるために作るのではない、作者自身が本当に伝えたいことや感じたことをアウトプットしていく、そうした表現が多い気がしています。

現代アートは一見すると「よくわからない」というものが多いといわれます。

現代はとにかく「わかりやすい」ものを求めがちですが、そこに敢えて「一目見ただけではわからない」というものを作り続けていくということに、とても意味があるような気がします。

資本主義経済の中で、「大衆が支持するものが正しい」という傾向はますます強まっています。

しかし、私は「誰かの評価」ではなく、そこから離れた「ものをつくる喜び」という、人間の根源にある欲求のようなものが素直に出たような作品に魅力を感じるのです。

DIY的な精神を持ち、自己というものが「表れる(現れる)」、自然とにじみ出てくるような作品に、私は出会いたいのです。

そういうわけで、私は今、ZINEを作っています。

誰に評価されるでもなく、ただ「自分が作りたいもの」をつくっています。

それは「市場価値」に換算すれば、ほとんど無に近いものかもしれません。でも、それでいいと思っています。

多くの人たちは、やたらと「意味」を求めます。

「あなたはどうしてZINEを作ったのですか」「この作品にはどんな意味が込められているのですか」

私は答えます。
「私が作りたかったからです」